1580年、細川藤孝、忠興、玉子(後のガラシャ)は、宮津へ入りました。
その2年後、本能寺の変が起こり、玉子は丹後半島の山深い味土野へ幽閉されます。
幽閉が解かれ、大阪玉造に移り住んだ後も、子ども3人を、宮津へ帰り出産しています。
2013年は、細川忠興・ガラシャ生誕450年。記念事業として、大手川ふれあい広場に、
「祈り」細川玉子(後のガラシャ夫人)像が建立され、11月15日に、銅像の除幕式が行われました。
宮津城は、大手川の東岸にあったので、ガラシャ像はお城の方を向いて、建っています。
銅像を制作された、日本芸術院会員で彫刻家の山本眞輔さんは、市内の建立候補地をまわられた時、
「『私はここがいい。』というガラシャの声が聞こえた。」と、お話しされていました。
台座の銘「祈り」を揮毫された、細川家18代当主の細川護煕さんは、ガラシャのことを宣教師が
ヨーロッパへ伝え、オペラになり、広く知られるようになったことなどを、お話しされました。
皆さんで記念撮影。
夜には、宮津会館で、宮津出身の作曲家、平野一郎さん作曲の
「伽羅奢〜チェロとピアノに依る連禱〜」などの演奏が行われました。
宣教師フロイスの日本史によると、玉子は、丹後の地に大伽藍(教会)を建てたいという、強い希望があったとのこと。
銅像の近くには、1896年に建てられた、カトリック宮津教会があります。
内部は畳敷きで、ミサをあげる現役の教会としては、日本最古の教会。
教会内部の柱に使われている欅は、味土野の近くから運ばれたと、伝えられています。
大手川ふれあい広場、教会へは当館から徒歩5分です。
ロビーに、宮津散策MAP、細川ガラシャ物語パンフレットを置いています。
行ってみようと思われたなら、道順など、どうぞスタッフにお尋ね下さいませ。
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